一枚の絵
「私の祖父は戦争で片足を失ったそうです。不自由な身体で農業をしながら、4人の子供を育てあげたことを毎晩のように話してくれました。私はその話を聞くのがあまり好きではありませんでした。怖かったからです。今日授業で、男子は戦地に向い、女子は看護師として戦場へ行くことが名誉であった時代があったことを学びました。また、近代看護の始まりはナイチンゲールがクリミア戦争に出向いたことがきっかけになったことも知りました。戦争と看護は切っても切れない関連があるのだということを知り、複雑な気持ちになりました。」
これは看護学概論の講義終了後、1年生が書いた授業の振り返りの一文です。
看護学概論では看護の歴史を考える単元があります。その日の授業は、戦争と看護の関連から話を始めたのでした。
ナイチンゲールは1854年、クリミアの戦場に出かけ傷病兵の救護にあたりました。彼女は、戦場から帰るとすぐに、病舎の環境・衛生面・食事などの気づきを「看護覚え書」として発表したのでした。私たちの学ぶ近代看護はそこに端を発しています。
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この授業をするときに、いつも一枚の絵を思い出します。
50号ほどの白い額縁の中に濃紺の帽子と制服を身に着けた看護師が斜めにこちらを見つめています。胸には水筒が下げられています。その背後に白衣を着たもう一人の看護師が正面から描かれています。「出発」と名付けられたその絵は、今まさに戦場に出向く従軍看護師の姿ですが、状況とはまるで正反対の静けさがあります。襟元には致死量の青酸カリを縫い付けていたとか、束ねた髪には通常よりも長いピンが常に刺されていたとか、いくつものエピソードが残されています。いずれも、従軍看護師がいざというときには決死の覚悟をして戦場へ出かけたことを示すものですが、この絵からは想像もできません。
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先日、川嶋みどり氏の講演を聞く機会がありました。“戦争立法の国会審議入り”が取り沙汰される中、急遽ご本人自らタイトル変更したというそのお題は、まさに「戦争と医療・看護」そのものずばりでした。従軍看護師は出発命令が出ると3日後には出発するのだそうです。人道博愛精神で救護に出発した看護師たちであったが、帰還した人の話では、向かった先はそのような余裕のあるものではなかったといいます。まず、異国の住人が立ち退いた後、商店や診療所に押し入り、食料はもちろん医療材料、医薬品など、物資の略奪から看護師としての任務が始まったのです。
その後も、世界は度重なる戦争を繰り返して今日に至っています。しかし、だれがどのような原因で何人死亡したのかという明白な数字は発表されることもなく、出血死か、感染死か、飢餓か、自害であったのか・・・・総括もないままに今日に至っています。
おそらく、状況報告すらできないほどの惨状であったと推測します。
ナイチンゲールのように負の経験を正に変える冷静な能力を持つ人はいなかった。
そう思いながら、再び絵の前に立った。
絵の中の人はいつものように静かでしたが、二人の人物の瞳は「空虚」を思わせます。白衣の人は見送りの仲間でしょうか、それとも出発する人自身の分身でしょうか。斜めと正面、濃紺の制服と白衣。この二律背反が、より一層、この絵に不思議な距離感をもたせています。 授業後の学生同様、複雑な思いになります。
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看護という仕事は覚悟のいる仕事です。
私は一看護教師ですから、いまどきの学生に覚悟を求めるならば、死ぬ覚悟ではなく、戦争に向わせない覚悟、そして、一つのいのちを最後まで守り抜く覚悟を伝えたいと思います。
副学校長 飯塚千鶴子